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YUKARI NITTA

私が英語と恋に落ちるまで(一)

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【幼少期編】

私は1978年に母の実家の神奈川県で生まれました。父と母は英会話スクールでの出会いをキッカケに結婚。母は専業主婦。母は英語がとても好きでしたがあまり話せませんでした。我が子には話せるようになって欲しいと願い私がお腹にいるときから胎教ということでクラッシックを聞かせたり英語のカセットを鳴らしていたそうです。3歳くらいの記憶でしょうか?カセットから流れたZebraという発音だけを今でも覚えています。

 

文武両道の幼稚園がいいと考えた母は今でも"はだかの幼稚園"として有名な幼稚園に私を入園させました。 はだかでどろんこになって遊んだことや、週1回、幼稚園でネイティブの先生とのレッスンがあったことをぼんやりと覚えています。 のびのびと3年間過ごした私は卒園式で大好きだった担任の先生が涙を流しながら抱きしめてくれたことを今でも覚えています。両親や家族以外の人からの愛を初めて感じた瞬間でした。 6歳になり、愛知県の公立小学校に入学して間もなく父の転勤で富山県に引っ越すことになりました。 太平洋側でしか暮らしたことのない母が6歳の私と1歳の弟を連れての日本海側への転勤はさぞかし 不安だっただろうと察します。 その年は何十年に一度という大雪の年でした。母はたくさん積もった雪で私たち姉弟を楽しませようと かまくらを作ったり小さいスキー山を作ったりと頑張ってくれたのを覚えています。 必死でその土地に馴染もうとしてくれていたんだと思います。

【小学校編】

小学校に通いだして間もなく、母は私を付属小学校に編入させたいと思い何度か受験しましたが全て不合格でした。私は学校のお勉強はイマイチでした。母が家で勉強をよく見てくれてはいましたが、そこまで地頭が良い訳ではなくただ真面目なだけの小学生でした。

 

英語はというと、今ほど英語ブームではなかったので英会話教室などには一切通っていませんでした。その頃は家でもかけ流しは行っていませんでした。母は英語にまで気を使う心の余裕がなかったんだと思います。

ただ一つだけ私には好きなことがありました。それはピアノです。母はエレクトーン講師の資格を持っていたので3歳くらいから家で教えてくれていました。8歳のときに学校で友達がメヌエットをピアノで弾いているのを聞いて母にピアノを習いたい!と懇願しました。母は知り合いの”つて”でその当時、月謝が1万円もするプライベートレッスンの先生に習わせてくれました。熱心な母はその月謝に見合うべく毎日最低1時間の練習に付き合ってくれました。

 

つまり、小学校から帰ってきたらお友達とは遊ばずに家でひたすら毎日、ピアノ練習をする小学生だったのです。

暗いですよねぇ・・・(汗)よく、大人になってから小学校のときこんな漫画読んだよね~などという話が同世代の子と出てもついていけませんでした。ただ、母と家にこもってピアノを練習する日々は私にとって全く苦ではありませんでした。

そのうち小学校の校歌の演奏や合唱コンクールの伴奏を頼まれるようになりました。今でもそんな風に生徒がピアノを弾いたりするのでしょうか?よく、小学校の同級生には将来はピアノの先生になると思っていた、と今でも言われます。

ピアノに力を入れていた小学校3年生~中学3年生。何か鍛えられたかといえば『耳』と『度胸』です。確実にこの音楽耳は英語のリスニング力に一役かってくれています。
そして、ピアノの発表会やコンクールに頻繁に出場することにより、日々の練習の成果を本番で出す、という度胸・プレゼン力が鍛えられたと思います。


『あなたは小学生のとき、何が好きでしたか?』

 

【父と英語編】

これまで「母の私との関係」を中心に綴って参りましたので「父と英語」について綴りたいと思います。父の趣味は英会話でした。ボランティアとして国際交流に参加して私や弟を交流会に連れて行ってくれました。英検準1級、TOEICは700後半だったかな?父も日常英会話を独学でマスターしました。そして数か月に1回、アメリカンのお友達を家に招待しては夕食を一緒に食べました。父はとても真面目な性格で規則正しい生活を好む人です。朝、決まった時間に起きて
決まった時間に用を済ませ、決まった内容の朝食を食べて決まった時間に出勤する。昔から生活リズムを大切にする人です。ですからお陰様で健康そのもので余暇は中国語に和太鼓に社交ダンス、仕事は六五歳の今も現役で日本中、時には海外も飛び回っています。特技?はカラオケと少林寺拳法。アメリカンのお友達がうちに遊びに来るとちょっと酔っぱらって演歌(美空ひばり)や少林寺拳法の技を披露してアメリカンを喜ばせていました。サービス精神にも溢れる人です。

 

そんな父ですが人は誰しも苦手なものがあります。コミュニケーション、人の想いを汲み取ることがあまり得意ではありませんでした。仕事場だけではく、家族とのコミュニケーションも・・・


『あなたのご家族はあなたをどうやって育ててくれましたか?』

【中学校編】

 

公立の中学校に入学した私は相変わらずピアノに力を入れていました。中学3年生になり、それまで洗脳のように『ピアニストになる』と思っていた私はてっきり将来、音大を受けるものだ、
と思っていました。しかし、母の思惑は違いました。


『うちはこの先、ピアノを続けさせるだけの経済力はないの。だから勉強を頑張って欲しいわ。』


そう言われました。

 

え???これだけピアノやってきたのに??

確かに私のピアノには相当のお金をつぎ込んでくれていました。年1回、隣の県のコンクールに出るために5万以上、月々の月謝1万+コンクールの前の特別レッスン1回1万、ソルフェージュ(楽典)月々5000円、毎年の発表会・各種コンクール参加費二万にドレス代・・・その他、先生から勧められるコンサートに月1ペースで行っていたので計算するのも恐ろしいくらいの
投資をしてくれていました。それだけやっても、コンクールでは万年、奨励賞。東京本選に行けたのも六年間でたったの1回。まーパッとしませんでした。真面目に練習したから
そこそこのレベルに行けただけのこと。母が勉強に、というのも分かります。それでも中3(15歳)の発表会で”ショパンのスケルツォ2番”をほぼノーミスで弾けるまで
持っていって下さったピアノの先生と両親に心より感謝してます。何より母と二人三脚でコンクールや発表会に向けて地道に練習する過程、師弟間、親子間の信頼関係、作曲家の想いの汲み取り、音楽性、表現力を身に付けられたことは少なからず今の私を形成する上で欠かせない要素なのだと思います。

とは言え英語と同じで触れていないと瞬く間に忘れていきます。これが英語の基礎力育成がピアノやテニスなどの基礎練習に例えられる所以です。ハノンやツェルニーを毎日練習するように、
バックやフォアードの素振りを毎日練習するように、私も毎日英単語と長文に触れています。


『あなたは中学生のとき、何に熱中しましたか?』


中3までピアノ一筋で来た私。突然、母に勉強への方向転換を迫られ、なんとなく胸につかえを残したまま母に言われた通りに勉強に切り替えました。(ピアノはその後大学まで細々と続けます)


この頃から母の興味は付属幼・小・中学校に通った弟へとシフトしていきます。それが弟の人生を狂わせて行きます。私は塾などには通っていませんでしたが中学校ではなんとか成績上位にいました。ですが、私が入りたいと思っていた進学校を受験するにはあと一歩足りない位置にいました。そこで出会った言葉が座右の銘である

『Where there is a will, there is a way. ~意志あるところに道あり~』


です。この言葉をメモ帳に書いて机の見えるところに貼って受験勉強をしました。
中学3年生最後の個人懇談で『○○高校を受験してもいいけど、入ってから苦労しますよ、それでもいいならどうぞ』そう担任の先生に言われました。例え入ってから苦労してもいいから絶対にその高校に入りたい。そう思って必死に勉強しました。そして結果は『合格』。まさに”意志あるところに道あり”です。しかしその担任の先生の仰る通り、高校に入ってからが大変でした。

【高校編】

 

意志あるところに道ありのスローガンのもと、志望校の高校に合格した私。高1、2は真面目な性格故ゆえに定期試験の成績はよくて10段階の8以上をキープしていましたが高3になって実力試験が入ってきてからは、30点や15点などという赤点をしょっちゅう出していました。高1、2はまだ夢見る少女でいられたのでお茶の水女子大学の理学部化学科を第一志望として書いていましたが、現実を知る高3になると実力相当の大学しか書くことができなくなってきました。このときばかりはさすがの座右の銘も効きません。母は
「浪人させるお金も滑り止めを受けるお金もないから、絶対に受かる国立大学にして」とお得意の「お金がないから」でこれまた私を洗脳?しました。あーーこれまでピアノに費やしてくれたんだから、仕方ないな、とグランドピアノを横目に思春期ながらに納得しました。


さて、5つ年下の弟は付属中学校に入学して思春期にさしかかっていました。真面目な女の子への育て方は反抗期の男の子には通用しないですよね・・・?弟は徐々に素行が乱れて非行へと走っていきます。母に安全圏の国立大学のみ受験するように促された私。そしてその通り、滑り止めを一切受けずに安全圏の国立大学前期に合格。これってよくよく考えると信じられないですよね?落ちてたら後期があるとはいえ、その条件を呑んだ私はほんと、ピュアだったんだわ(笑)。
もし、お子さんを○○大学に入れたいと思われたら、日本には○○大学しかないの、と幼少期から洗脳することをオススメします(笑・冗談です)。

 

合格したのは理学部化学科。私は中学のときから理科の実験が大好きでした。算数も数学も好きだったので迷わず理系に進みました。が、もともと英語が好きで趣味で英語を続けてきた父は
私の理系行きを大反対しました。

 

「女の子なんだから文系にいきなさい。英語好きだろ?」

 

と。


「え?お父さんだって英語好きだけど理系に進んだじゃない!」

 

と反論すると


「お父さんは本当は英文科に行きたかったのに男なんだから理系にっておじいちゃんに言われたんだ。」


「えっと、同じこと私にもしてるよね?本人が行きたいって思うところに行かせてくれないの?」


18歳。初めての親への抵抗。口論が続きましたが

「分かった、好きにしなさい」


とようやく理解してくれました。父は私に英文科に行って自分が叶えらなかったことをしてほしかったんだと思います。後に父は自らの力で叶えるんですけどね。

 

父には認めて貰えましたが母は私の理学部行きを大反対しました。

 

「薬品を使って身体でも壊したらどうするの?」

 

と。それでも両親は私が決めたことを最終的に応援してくれました。この無条件(??)の応援ほど子供が安心するものはありません。

私も子供たちが受験生になったら父と母がしてくれたように子供自身が決めたことは心から応援したいと思います。・・・「お金がないから」は言わずに・・笑


ゆかりさん、英語は好きじゃなかったの?という疑問を持たれたあなた!中学英語はそこそこ得意でした。でも実はそこまで好きではありませんでした。父が連れてきてくれるアメリカンと話すのは好きでした。ただ、英語の勉強自体は単調で正直、理科や算数を上回るものではありませんでした。転機は高校時代の英語の先生との出逢いでした。


『あなたは将来の進路についてどう考えていましたか?』


私が「英語に恋をするキッカケ」となったのは高校時代、英語の先生との出逢いでした。
進学校の先生にふさわしく、英語のエキスパートでした。留学も海外旅行にすら行ったことのない先生でしたが発音が完璧でした。日々、カセット(もうCDになってたかな?)を聴いて特訓していると仰っていました。先生の口癖は
 

「僕は海外に一度も行ったことがないけれど、何百回も何千回もカセットを聴いて声に出して練習すれば、この発音までなれるんだよ!」


先生の英語力と発音に憧れて、当時の教科書である「チャート式シリーズ 基礎からの新総合英語 」を隅々まで学習して英文法の基礎を身につけました。また、先生から単語・イディオムは
英文法と同じくらい大切と耳にタコができるくらい(古い?)聞いていたので、
 

「単語・イディオム別 入試英語 頻出問題完璧演習 」
 

を数10回、いえ100回以上かもしれません、とにかく繰り返しこなしまくりました。
そしてその先生の授業が非常にロジカルだったんです。「英語って美しい」って思いました。
理系人間なので、論理的に文法を教えて貰えるとワクワクしました。そして先生の発音のように
美しい英語を話したい!と思い、映画の音声のみをカセットに録音して(テレビの横にテープレコーダーを置いて録音)ひたすら聴いていました。


『あなたは人生を左右するような人との出逢い、ありますか?』


高校で出逢った英語の先生の発音のように美しい英語を話したい!と思い、映画の音声のみをカセットに録音してひたすら聴いていた私。これが私のリスニング&スピーキング力の基礎です。
ピアノで培った音楽耳に加えてこの映画セリフの聞き流し&発話(今でいうところのシャドウイング?)が今の私の英語力に繋がっています。そして洋楽好きなお友達と仲良くなってその子の発音の良さにも衝撃を受けてひたすら洋楽を聴いて歌っていました。楽しかったな~高校生って多感な時期なのでいわゆるネイティブの発音で話すことに抵抗があるんですよね。私もそんな高校生の一人でした。ですから、高校の間は発言で当てられても棒読みでしか読んでいませんでした。照れがあったんです。そんな中、父がボランティア活動で出会ったアメリカ帰りの美奈子さんというお姉さんを紹介してくれました。それまで、英語を学校以外で習ったことはなかったのですがそのアメリカ帰りのお姉ちゃんとのプライベートレッスンならいいかなって思って週1で
家庭教師してもらうことになりました。この間、ふと思い出したのですが美奈子さんは「Sleepless in Seattle」というトムハンクスとメグライアンのラブロマンスの映画が大好きで
100回以上もみたって言っていました・・・もしかして美奈子さん、シアトルに留学してたのかな・・・?不思議なご縁を感じます。美奈子さんの発音を聴くうちに、私もネイティブっぽく話してもいいんじゃないか?そう思えるようになってきました。教材は高校の教科書を使っていましたが音読を一緒に練習するうちに恥じらいがなくなっていきました。父が連れてくるアメリカンのお友達とも更に会話が楽しくなっていきました。私はこうして英語と恋に落ちました。


『あなたは英語をどうやって勉強してきましたか?』

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